淵の瞳
【エリア】:喚覚深海
「闇海の光」の領地を越え、その先の海域へ足を踏み入れようとする冒険者は、ほとんどいない。古い地図には、ただ「淵」とだけ記されている……目印も島影もなく、ただ、触れるものすべての光を飲み込むかのような、果てしない黒い水面が広がっているだけだ。
本当なら、こんな遠くまで来るはずではなかった。そう気づいたときには、すでに背後の霧の中へ岸辺の姿は消え去っていた。ブーツの周りを満たす水は不思議なほど温かく、海水とは到底思えないほど粘り気がある。一歩踏み出すたびに力を奪われ、足を引き抜くたびに、グチュッ、と重く濡れた音が響いた。
そのとき、ぬめり気のある何かが足首に絡みついてきた。
スライムだ。
濃いダークブルーの液体が、水面下でかすかに発光している。身をかがめ、触れようと手を伸ばした。
――やめておけばよかった。
……
どこまで続いているのかも分からない、長く細い何かが足の間をすり抜け、姿を確かめる間もなく暗闇の中へと消えていった。間髪を入れず、二本目の影がふくらはぎをかすめる。
だが今度は、ゆっくりと……まるで意図的であるかのように動いていた。
思わず身を固くする。
一本目の「尾」が戻ってきて足首に緩く巻きつき、もう一本がさらに上へと這い上がってくる。どちらも、急に締めつけるようなことはしない――まだ。
温かくぬめり気のある体を擦り合わせ、ヌチュ、ヌチュと粘つく音を立てながら、互いに絡み合うように周囲を旋回している。まるで、自分たちの縄張りに迷い込んできたものが何なのか、確かめようとしているかのようだった。
振り払おうと足を引いた。
その瞬間、巻きついていたものが牙を剥くように強く締まった。
黒い水面の下で、濡れた巨大な塊がグチュッと重く動く。
続いて、もう一つ。
さらに一つ。
気づけば、身体に巻きついている数本の尾だけでは到底説明できないほどの「粘つく音」が、周囲一帯から聞こえ始めていた。
そのとき、なぜ過去の冒険者たちの記録に、この生物の姿が残されていないのか――その理由を悟った。
その全体像を目にした者など、誰一人として生きて戻ってこなかったのだ。
尾と尾がゆっくりと絡み合い、ぬめった体が重なっては離れるたびに、粘り気のある糸を長く引いていく。発光する青いスライムは、次第に水面全体へと広がっていった。好奇心ゆえの行動なのかもしれない……。だが、奴らの動きは次第に大胆さを増していった。
一本のぬめった触手が腰のラインをゆっくりと這い上がり、身体に擦りつけるように動きながら、脚の間へと潜り込んでいく。同時に、別の何本もの触手が両腕と両足を固く縛り上げ、まるで体重など存在しないかのように、身体ごと水面から軽々と吊り上げた。
身体から垂れ下がった分厚いスライムの糸が限界まで伸び、やがて千切れる。そして、下に広がる「淵」へ、ぽたり……ぽたり……と落ちていった。ぬめりをまとった一本の肉触手が、顔へ向かってゆっくりと持ち上がってくる。その生温かな先端が唇に触れ、ズル……ズル……と音を立てながら、ゆっくりと蠢いていく。
そして、水面下に潜む「何か」もまた、残された身体を放置するつもりはないようだった。
温かく、スライムに濡れた太い触手が、再び脚の間へと滑り込んでくる。一瞬の間を置いたあと、さらに動きが激しくなっていく。
やがて、周囲にはヌチュ……ヌチュ……という粘ついた音が響き渡り、一定のリズムを刻み始めた。身体を縛る触手がさらに強く締まり、逃げ場を奪う。
そのとき、周囲を覆っていた異様な気配が一気に膨れ上がった。
意識は次第に遠のいていく。
口内を満たす強烈な異物感と、身体を絶え間なく襲う感覚。そのどちらに翻弄されているのかさえ、もはや判別できない。
すべての思考が、周囲を覆う熱く粘ついた闇の中へと溶けていく。
そして――。
どれほどの時間が経ったのかも分からなくなった頃、触手はゆっくりと離れていった。
最後にズル……と音を立てて離れていく感触だけが、妙に鮮明に残っている。ぬめった肉質の先端が完全に離れると、口元には甘く温かな液体の筋が残された。それは一瞬だけその場に留まり――やがて、顎を伝ってゆっくりと滴り落ちていった。